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新潟地方裁判所 昭和63年(ワ)20号 判決 1993年2月25日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告大越康之に対し金六三六一万五四四五円、原告大越巖及び原告大越淳子に対し各金二七五万円及び右各金員について昭和六〇年一二月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、被告の設置する新潟大学医学部附属病院において心臓の外科手術を受けた原告大越康之(以下「原告康之」という。)が、術後、同病院の回復室で心停止となり脳に不可逆的な障害を受けたのは、被告の被用者である医師や看護婦が術後管理を怠ったためであるとして、被告に対し民法七一五条に基づき損害賠償を請求した事案である。

二  争いのない事実

1  当事者

(一) 原告康之は、原告大越巖(以下「原告巖」という。)及び原告大越淳子(以下「原告淳子」という。)の長男として昭和五八年一〇月一二日出生した。

(二) 被告は、新潟大学医学部附属病院(以下「本件病院」という。)を設置し、渡辺弘医師(以下「渡辺医師」という。)東樹都志子看護婦(以下「東樹看護婦」という。)、山崎真澄看護婦(現在の姓は、田才。以下「山崎看護婦」という。)ら、昭和六〇年一二月当時、本件病院の第二外科に勤務していた医師及び看護婦の使用者であった。

2  原告康之は、生後三か月目の検診の際、心臓に雑音が認められ、先天性心奇形が疑われたため、昭和五九年一月二六日、福島県会津若松市所在の竹田総合病院心臓外科において受診した結果、大血管転位症兼肺動脈狭窄症と診断された。

同疾患は、極めて重篤な複雑心奇形であり、放置した場合の平均寿命が非常に短く、九〇パーセント弱は一歳までに死亡し、一〇歳までの生存はほとんど望めないとされている。また、根治手術を行っても、長期遠隔期には不整脈・心不全・突然死などが起こり得ることが国内・国外の諸施設から報告されている。

3  原告康之は、外科治療以外に延命をはかる手段がないため、昭和六〇年七月一〇日、本件病院において宮村治男医師(以下「宮村医師」という。)の診察を受けた。その際、宮村医師は、原告巖及び原告淳子に対し、原告康之の疾患の病態、予後の状況、手術内容、手術の危険性について説明し、その了解を得た上で、原告康之の入院と手術のための手続を行い、原告康之は、同年九月二六日、本件病院に入院した。原告康之は、心エコー検査、心臓カテーテル検査等の精密検査を受け、最終的に心房中隔欠損、心室中隔小欠損を伴った大血管転位症兼肺動脈弁下狭窄症と診断された。

4  原告康之は、同年一二月三日、本件病院第二外科江口昭治医師(以下「江口医師」という。)を執刀者とする心内修復術(心室中隔欠損孔閉鎖と肺動脈弁下狭窄解除を伴うセニング手術、以下「本件心内修復術」という。)を受けた。右手術は、手術時間が八時間四〇分、麻酔時間が一〇時間四五分に及んだものであり、本件心内修復術中は、人工心肺を用いて血液体外循環を行い(体外循環時間は四時間五〇分であった。)、心臓は二時間四九分の間人工的に停止させるというものであったが、手術自体は予定どおりに終了した。

5  原告康之は、手術後の同日午後七時五〇分ころ、本件病院第二外科棟内に設置されている回復室(以下「回復室」という。)に収容されたが、手術直後のため意識はなく、回復室専任の医師団は原告康之に対し、術後の全身管理を行い、人工呼吸器を使用しながら、強心剤・利尿剤等を投与して、心不全の治療を行った。

6  渡辺医師は、回復室担当医として、原告康之及び当時原告康之とともに回復室で治療を受けていた患者(以下「訴外患者」という。)の全身状態の管理を担当していたところ、同月四日午後〇時ころ、原告康之に対する人工呼吸器をニューポート・ベンチレーター・モデルE一〇〇(以下「本件人工呼吸器」という。)に取り替えた。本件人工呼吸器は、警報装置を内蔵しており、通常、約三センチメートル水柱ないし約三五センチメートル水柱の気道内圧(呼吸器回路内圧)では警報音を発しないが、気道内圧が右範囲を超えた場合に警報音を発するもので、同警報装置は取り外すことはできず、また、警報装置の設定範囲を異常に設定した場合は、低圧又は高圧のどちらかの警報が鳴り続けるようになっており、実際上の使用が困難となるものである。

渡辺医師は、本件人工呼吸器を原告康之に装着する際、吸入酸素濃度、呼吸回数、換気量、呼気時間、警報範囲の設定を行い、同日午後八時に呼吸回数について設定条件の変更を行った。

7  原告康之は、同日午後九時二四分、動脈血ガス分析検査を受けたが、血中の炭酸ガス蓄積、低酸素血はなく、呼吸状態の異常は認められなかった。

8  渡辺医師は、同日午後一〇時ころ、回復室において、原告康之の胸部聴診等を行ったが、その後、回復室に隣接する記録室に入り、しばらく後再び回復室に戻り(同日午後一〇時一五分より前であることは当事者間に争いがない。)、まず訴外患者を観察し、次いで原告康之に目を向け、原告康之に装着してあった多用途監視装置(ポリグラフ・システム、以下「本件ポリグラフ」という。)の画面を見たところ、血圧波形が一直線となり、血圧が零の状態に陥っているのを認めた。

渡辺医師は、まず本件ポリグラフのモニター回路が正常であるか否か点検し、脈拍がないことを確認した上で原告康之に心停止が発生した(以下「本件心停止」という。)と判断し、直ちに原告康之に対し心臓マッサージを行った。その際、回復室にいた東樹看護婦もこれに協力し、また、当時、本件病院の当直医をしていた大和靖医師(以下「大和医師」という。) と本件病院第二外科の研究室にいた金沢宏医師(以下「金沢医師」という。)は、それぞれ急変の知らせを聞いて回復室に駆けつけ、大和医師は用手的人工換気を行い、東樹看護婦が薬剤の調合と静脈路への薬剤注入を行った。大和医師に後れて回復室に到着した金沢医師は、大和医師に代わって用手的人工換気を行った。

9  本件心停止の発見から心拍動再開までに要した時間は、約一〇分間であり、また、原告康之の血圧と脈拍が十分に復活した時点で心蘇生操作を終了したが、右心蘇生施行時間は、約三〇分間であった。

三  争点

1  本件心停止の原因

(一) 原告らの主張

本件心停止は、本件人工呼吸器から原告康之の鼻を通じて気道内に挿管されていた気管内チューブが原告康之の気道内分泌物(痰)によって閉塞し、原告康之の気道が完全閉塞したために生じたか、あるいは、原告康之の右気道閉塞により低酸素状態となって頻脈性不整脈を生じさせ、それが誘因となって発生した。

(二) 被告の主張

本件心内修復術のように、術中の大動脈遮断、心停止の時間が長かった事例では、重篤な心室性不整脈(心室細動)が出現しやすいとされ、現実に原告康之に対し、本件心内修復術後、多量のカテコールアミン(強心剤)が投与されており、また、手術後胸部X線像では肺野のうっ血と心陰影の拡大がみられ、また、眼瞼には浮腫が認められたことは、心不全が高度であったことを示している。

したがって、本件心停止は、本件心内修復術後を契機とする高度な心不全・呼吸不全を原因とする突然の心室細動である。

2  本件病院の医師及び看護婦らの過失の有無

(一) 原告らの主張

(1) 回復室において患者の治療・看護にあたる医師及び看護婦らは、患者の気道内分泌物の排出の状況に絶えず注意して適宜これを排除し、気管内チューブの閉塞を未然に防止すべき義務があるところ、原告康之は、回復室において、昭和六〇年一二月四日午後九時ころ、喀痰の吸引排除を受けているが、それ以後同日午後一一時まで喀痰の吸引排除を受けておらず、回復室の医師及び看護婦らは、原告康之の喀痰の吸引排除を怠ったために、気管内チューブの完全閉塞を来たし、本件心停止を発生させた。

(2) 回復室において患者の治療・看護にあたる医師及び看護婦らは、患者の心電図、血圧、脈拍等の血液循環の状態を測定する本件ポリグラフについて、患者の脈拍数値の異常を知らせる警報装置、心電図波形に同調して鳴る同期音の音量を適正に設定し、視覚的には本件ポリグラフの画面表示を、聴覚的には本件ポリグラフの警報音及び同期音を連続的に監視し、患者に血液循環の異常があれば、直ちにこれを発見すべき義務があるところ、回復室の医師及び看護婦らは本件ポリグラフの連続的監視義務を怠ったものであり、その結果、本件心停止の発見が遅れ、施された心蘇生術は時機を失したものとなった。

(3) 回復室において患者の治療・看護にあたる医師及び看護婦らは、患者に心停止が発生しているのを認めた場合、速やかに心蘇生術等を行う義務があるところ、回復室の医師及び看護婦らは、本件ポリグラフのモニター画面における血圧表示の異常を発見した後、モニター回路の点検等を行い、心マッサージを開始するまで約三〇秒を要しており、直ちに原告康之の心臓音の聴取をすれば数秒で心停止を確認して心マッサージを開始できたと考えられるから、心蘇生術開始に遅延があった。

(二) 被告の主張

(1) 前記1(二)のとおり、本件心停止は、本件心内修復術を契機とする高度な心不全・呼吸不全を原因とする突然の心室細動であり、気管チューブの閉塞による気道閉塞を原因とするものではない。そして、喀痰の吸引排除を適宜行っていたから、回復室の医師及び看護婦らが原告康之の喀痰の吸引排除を怠った事実はない。

(2) 東樹看護婦は、渡辺医師が本件心停止を発見する二〇ないし三〇秒前にモニターの画面を確認しているが、その際、画面上特に変化がなかった(回復室の看護婦は一分間に一回はポリグラフのモニターの画面を見るように指導され、原告康之を看護していた東樹看護婦もそれを実践していたから、本件心停止の発生から発見までの時間は、長く見積もっても発見まで約一分間である。)。そして、渡辺医師は、午後一〇時一〇分ころ、モニター画面上の血圧表示が「零」の状態であることを発見し、約三〇秒かけてモニター回路の点検、脈拍の確認等をしたのち、心蘇生術を開始している。したがって、渡辺医師及び東樹看護婦らは、本件心停止発生後約一分間で原告康之に対し蘇生術を開始したから、原告康之に対する監視観察義務を十分に尽くし、本件心停止に対しては適切な処置をとっていたというべきである。

本件心停止発生後約一分間という短時間で蘇生が開始されたにもかかわらず、結果的には原告康之に重篤な脳障害を残した。この脳障害遺残については、本件心停止が直接の原因と考えられるが、原告康之の場合、本件心停止発生が心臓手術後の第一病日であるため、術中の心停止、体外循環の影響がまだ強く残っている身体状態であったこと、原告康之に生来の低酸素血症があったことを加味する必要がある。すなわち、心停止発生後三分間以内の蘇生術開始であれば、脳障害を残さないと一般的にはいわれているが、これは、健常人を対象としての議論であり、原告康之のように基礎疾患に重篤な疾病や病態がある者の場合は、組織、臓器の予備力が低下するため、三分間がタイムリミットとはいえず、より短時間でも脳障害が起こり得ると考えられ、しかも、どのような疾病、病態で何分間がタイムリミットかという点については、未だ不明であり、個人差も大きい。本件心停止後、原告康之に対して迅速かつ適切な蘇生術が施行されたにもかかわらず、医療従事者の予想を超えた重い脳障害が原告康之に生じたのは、生来の低酸素血症、長時間の体外循環といった因子が関係し、これが脳障害を増悪する素地をつくっていたものと推定される。

3  損害額

第三  争点に対する判断

一  本件心停止の原因

1  甲一ないし五、一六、一九、二二ないし二六、四一、四二、五二、五三、乙一九、二二、二三、二六、二八、三〇、三四、証人宮村医師、同渡辺医師、同金沢医師、同山崎看護婦及び同東樹看護婦の各証言並びに原告巖及び同淳子の各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる。

(一) 回復室は、本件心停止当時、一床当たりの床面積の不足、ポータブルX線撮影装置及びバイオクリーン装備の欠如のため、厚生省保険局長通知「運動療法等の施設基準の承認に関する取扱い」(昭和四九年一月二五日保発八最終改正同六三年三月一九日保発二〇)で定める特定集中治療室管理の施設基準を満たしていなかったが、人工呼吸器、ポリグラフ、救急蘇生器、薬剤等を常備するとともに専任の医師及び看護婦が常時勤務し、術後の重症患者を集中的、継続的に治療、監視し、容態の急変に速やかに対処し得る施設であった。本件病院の医師や看護婦の中には、回復室を「ICU」と呼ぶ者もいた。

回復室は三床のベッドを有し、二名以上の患者が収容されている場合には、二名の看護婦が分担して看護に当たる体制をとっていた。そして、回復室で患者の看護に当たる看護婦は、患者及び患者に装着されたポリグラフのモニター画面の連続的監視を行って、患者の一般状態の観察をするとともに、一時間毎に血圧、呼吸数、体温、脈拍数、中心静脈圧、尿量及び出血量等を測定して看護記録に記載するバイタルサインのチェックを行い、それ以外にも喀痰の吸引、輸液の管理、注射、投薬等の看護をしている。回復室で患者の看護に当たる看護婦は、一分間に最低一回は、ポリグラフのモニター画面を見て患者の一般状態に変化がないかを監視するように指導されていた。

(二) 本件人工呼吸器は、警報音を自由に設定したり、切ったりするスイッチはなく、音量調節機能もない機種であり、ただ、警報音を一時停止するボタンが設置されているが、これは約五〇秒間警報音を停止することができるというものである。

(三) 原告康之は、本件心内修復手術後、カテコールアミン(強心剤)の投与を受けた(ドパミン及びドブタミンをそれぞれ一分間に一キログラムあたり一〇マイクログラム、イソプロテレノールを一分間に一キログラムあたり0.0027マイクログラムの投与を受けた。)。原告康之の中心静脈圧は、回復室に収容された昭和六〇年一二月三日午後八時ころ二九八ミリメートル水柱であり、その後も本件心停止までほぼ二五〇ミリメートル水柱以上の数値で推移した。

(四) 渡辺医師は、本件心内修復術後の原告康之に対する治療方針として、右(三)のとおり原告康之の心不全を防ぐために大量に使用していた強心剤を、原告康之の一般状態を観察しながら次第に減量すること、回復室に収容直後は全く自発呼吸がなく、人工呼吸器に依存していたことから、自発呼吸が出た段階で少しずつ人工呼吸器からの離脱を図ることを目標とし、実際に、渡辺医師らは、同月四日午前一一時ころ、強心剤の量を一時間当たり4.5ミリリットルの量に減量した。また、同日午後〇時に本件人工呼吸器に切り替えた際の呼吸数の設定は一分間に二〇回としたが、その後、同日午後六時に原告康之に自発呼吸がみられるようになったため、同日午後八時に本件人工呼吸器の回数を一分間に一七回と減少させた。

(五) 原告康之は、回復室に収容された後から体動が認められ、同日午前六時ころには激しい体動もみられた。同日午後一時ころには、一時的に開眼するようになり、その後も体動と入眠を繰り返した。原告康之は、同日午後八時ころ、ぼんやりとした状態ではあるが、意識も覚醒し、泣くと上半身にチアノーゼが見られたため、そのころ、吸入酸素濃度は、四〇パーセントから八〇パーセントに引き上げられた。その結果、同日午後九時二四分に血液ガス検査を行ったところ、動脈血中酸素分圧が二五七ミリメートル水銀柱に上昇していた。

また、原告康之は、かなり多くの喀痰をし、回復室で原告康之の看護をした看護婦は、繰り返し喀痰の吸引をした。原告康之の喀痰には、血液が混じっていることが多かった。

(六) 昭和六〇年一二月四日当時、回復室には原告康之のほかに訴外患者が収容されていた。同日午後四時から翌日午前〇時三〇分まで原告康之及び訴外患者の看護を担当した準夜勤務者は、東樹看護婦と山崎看護婦であり、同日夜泊まり込みで回復室の勤務をした回復室専任の医師は、渡辺医師であった。

その当時、原告康之は、回復室の入口から最も奥のベッド、訴外患者は、最も入口寄りのベッドで治療を受けており、東樹看護婦はもっぱら原告康之、山崎看護婦は訴外患者の看護を担当し、それぞれ担当する患者について、患者及び患者に装着されたポリグラフのモニター画面の連続的監視、バイタルサインのチェック、喀痰の吸引、輸液の管理、注射、投薬等を行っていた。山崎看護婦は、原告康之が術後間もないことから、本件ポリグラフのモニター画面も時折注意して見ていた。

(七) 東樹看護婦は、同日午後一〇時、定時のバイタルサインのチェックを行ったところ、検査結果に著変はなく、血圧は最高血圧が一二四ミリメートル水銀柱、最低血圧が七二ミリメートル水銀柱であり、中心静脈圧は、二六〇ミリメートル水柱であった(心拍数は、看護記録に記載がなく判然としない。)。

(八) 渡辺医師は、同日午後一〇時、定時の検診のために回復室に入り、まず、原告康之の胸部聴診、心電図及び血圧の状態、チアノーゼの有無等全身状態の観察を二、三分かけて行い、異常のないことを確認し、訴外患者についても同様の検診を行った。原告康之及び訴外患者の右検診に要した時間は約五分間であり、その後、渡辺医師は、回復室を出て、隣にある記録室に戻り、カルテの整理等を約五分間かけて行い、同日一〇時一〇分ころ、再び、回復室に入室した。

渡辺医師は、まず訴外患者のポリグラフのモニター画面を見て異常のないことを確認し、その後、同じように本件ポリグラフのモニター画面を見たところ、血圧波形が一直線となり、血圧が零であることを示していたため、「心停止か。」と叫んだ。そのころ、東樹看護婦は、同日午後一〇時に行ったバイタルサインのチェックの結果を看護記録に記載し、その後、注射薬剤の調合、輸液速度の調整、ドレーンチューブのミルキング(心臓周囲に血液が貯留して圧迫せぬようにチューブをしごいて出血した血液を外部に排出させる行為)等に従事しており、渡辺医師が「心停止か。」と叫んだ当時、原告康之のベッドの横にしゃがんで尿の定性チェックをしており、渡辺医師の叫び声を聞くまで本件ポリグラフのモニター画面及び同期音の異常には、全く気付かなかった。また、本件心停止当時、ポリグラフに内蔵された脈拍数値の異常を知らせる警報音も、人工呼吸器に内蔵された気道内圧の異常を知らせる警報音もいずれも鳴っていなかった。

山崎看護婦は、そのころ訴外患者の近くで点滴の準備をしており、渡辺医師が「心停止か。」と叫んだのとほぼ同じころ、本件ポリグラフのモニター画面を見て血圧が零を示しているのに気付いた。

(九) 渡辺医師は、本件ポリグラフのモニター画面上の血圧が零になっているのに気付いた後、直ちにモニターの回路に異常がないか調べ、原告康之の大腿部の動脈の拍動を確認し、脈拍がないことを確認した上で原告康之に心停止が生じたと判断し、直ちに心マッサージを開始した。そして、東樹看護婦は、アンビューバッグを持って用手的人工換気を始めた。心マッサージを始めてから一、二分後、大和医師が回復室に入り、東樹看護婦に代わって用手的人工換気を行った。大和医師が回復室に入って約一分後、金沢医師が回復室に入り、大和医師に代わって用手的人工換気を行った。金沢医師がアンビューバッグを揉み始めてから約五分後、金沢医師は、揉んでいたアンビューバッグに抵抗を感じ始めたため、原告康之の気道に入れてあった気管チューブを交換することにした。金沢医師らは、原告康之に対する人工換気を継続しながら、原告康之の口を開け、咽頭付近にあった胃の内容物を吸引し、口腔内をきれいにした上で原告康之の口から新しい気管チューブを挿入し、原告康之の鼻から入れてあった従来の気管チューブを抜去した。

(一〇) 原告康之の心停止は、渡辺医師が心マッサージを開始した当時、心静止(スタンドスティル)の状態であったが、心マッサージによって心室細動となったため、渡辺医師は、電気ショックを三回かけるなどして原告康之の自己心拍動を再開させた。そして、原告康之の血圧が十分保たれるのを確認した上で心蘇生術を止め、用手的人工換気を止めて人工呼吸器を装着した。

(一一) 蘇生術を終えた後、金沢医師らが原告康之の鼻から抜き取った気管チューブを見たところ、外側及び内側が血液、分泌物で汚れていたが、内径五ミリメートルの気管チューブが閉塞しているということはなかった。

(一二) 原告康之のカルテ、看護記録等の記載について

(1) 山崎看護婦は、本件心停止後準夜勤務が終了する同月五日午前〇時三〇分までの間に、東樹看護婦に代わって原告康之の看護記録(フローチャート)の同月四日二二時の症状処置欄に「突然心停止あり。心マッサージPM開始・気管内チューブコアグラ(+)ゼグレートでつまっている。経口挿管に変更P=VF、DC後PATとなり、再度DC施行し戻る」と記載した。

(2) 本件心停止当時、病棟で準夜勤務をしていた荒瀬原明子看護婦(以下「荒瀬原看護婦」という。)は、本件心停止後準夜勤務が終了する同月五日午前〇時三〇分までの間に、病棟日誌に「挿管チューブつまっており心停止」と記載した。

(3) 渡辺医師は、本件心停止後翌日の朝までの間に、本件心停止について原告康之のカルテに「二二時過ぎ、突然心停止になる。すぐに心マッサージ開始。アンビュでもむと抵抗があり、換気が十分でない可能性があり、抜管し、再挿管す。」、「心停止の原因は?換気不全?電解質異常による不整脈?心機能低下?(カテコールアミン量不足?)」との内容の記載をした。

(4) 同月五日から回復室担当医となった小菅敏夫医師(以下「小菅医師」という。)は、同日脳外科医に原告康之の脳損傷についての診断を依頼したが、脳外科医宛の診療依頼書に「一二月四日二二時三〇分頃心停止となりました。原因として気管内チューブの喀痰による閉塞、それによる低酸素症が考えられ、再挿管にて回復しました。」との内容の記載をした。

(5) 本件病院の看護婦である儀同真由美(以下「儀同看護婦」という。)は、同月三日から同月九日まての出来事の要約として、そのころ、看護記録に「気管チューブ閉塞により、心停止」と記載した。

(6) 昭和六一年二月六日から同月四月一日まで、原告康之の主治医であった佐藤好信(以下「佐藤医師」という。)は、同年二月六日、同日脳外科医に原告康之の脳損傷についての診断を依頼したが、脳外科医宛の診療依頼書に「気管内チューブの喀痰による閉塞のため低酸素症となり、無酸素性脳症になった」との内容の記載をした。

(7) 佐藤医師は、同年三月二日、本件病院の整形外科医の﨑村陽子医師(以下「﨑村医師」という。)に原告康之のリハビリ療法の依頼をしたが、その診療依頼書に「術後、チューブトラブルで無酸素性脳症となった」との内容の記載をした。

(8) 﨑村医師は、同月一三日、リハビリテーション部連絡票と題する書面に、原告康之の診療経過の要約を記載しているが、その中で「一二月四日、カニューレトラブルにより心停止」との記載をした(なお、﨑村医師は、同日、本件病院第二外科の原告康之の主治医らと今後の原告康之のリハビリについてのケース会議をしている。)。

(9) 佐藤医師は、同月末ころ、原告康之の主治医を金沢医師らに引き継ぐ際引継書を作成したが、その中で「一二月四日(術後)痰粘稠の為気管チューブ完全閉塞、心停止となる」との記載をした。

(10) 本件病院第二外科の杉田看護婦(以下「杉田看護婦」という。)は、同年四月一五日、原告康之の看護要約を作成したが、その中で「術後一日目不整脈より心停止となり」との記載をした。

2(一)  原告康之のカルテ、看護記録等に本件心停止の原因は、気管チューブが閉塞したためであるとの記載が多数箇所になされたことは、前記(1(一二)(1)ないし(9))認定のとおりであり、この点について、被告は、本件心停止後は、いかに原告康之の損傷された脳を回復させるかに主眼があり、本件心停止の原因については、医師としてさほど関心がなく、誤解に基づいた記載をそのまま引き写した結果であると反論し、証人宮村医師の証言中にもこれに沿う供述部分がある。なるほど、本件心停止によって、損傷した脳をいかに回復させるかという観点から考えた場合、本件心停止の原因についてはさほど問題とはならないと思われる。しかしながら、再度の心停止の予防という観点からみた場合、本件心停止の原因を気管チューブの閉塞によるものと考えるか、突然発生した不整脈の結果であると考えるかによって、治療方針に影響がないともいえないし、誤解にしては余りに多くの本件病院における医療関係者が本件心停止の原因を、見方によっては人為ミスとも判断されかねない気管チューブの閉塞とカルテ、看護記録等に安易に記載していることに鑑みると、単純にそれらの記載が直接本件心蘇生に携わらなかった者の誤解と、その誤解を安易に引き写した結果であるというのは困難であるといえなくもない。

また、被告は、山崎看護婦がフローチャートに「気管内チューブコアグラ(+)ゼグレートでつまっている。」(前記1(一二)(1))と記載したことに関し、コアグラは、凝血、ゼグレートは分泌物全般を意味するのであって、これを凝固痰と解するのは誤りであると主張し、山崎看護婦の証言中にもこれに沿う供述部分もある。しかしながら、前記認定のとおり、原告康之は、かなり多くの喀痰をし、回復室で原告康之の看護をした看護婦は、繰り返し喀痰の吸引をしたこと、原告康之の喀痰には、血液が混じっていることが多かったこと、甲二、乙二六、東樹看護婦の証言によれば、東樹看護婦も痰という意味でゼグレートと記載することがあったこと、昭和六〇年一二月四日午前二時から四時の間にも「気管内ゼグレート粘稠血性」との記載があることが認められるなどを考慮すると、ゼグレートを凝固痰と理解するのが誤りであると断言することに疑問を感じないわけでもない。

(二)  しかしながら、証人渡辺医師、同金沢医師、同山崎看護婦、同東樹看護婦は、一様に、本件心蘇生を開始し始めた時点では、用手的人工換気は問題なくできたのであり、本件心蘇生継続中に、気管チューブ内に抵抗を感じてチューブがつまりかけているのがわかったと証言しており、右証言によれば、前記の気管チューブが詰まって心停止を起こしたとの一連の記載は、被告の主張するとおり、結果を原因と誤解したと考えられなくもない。

また、前記争いのない事実(6)のとおり、気管チューブが喀痰等で閉塞すれば、気道内圧が上昇して本件人工呼吸器の警報音が鳴るはずであるところ、前記(1(二)、(八))認定のとおり、本件心停止当時、その音を聞いた者はおらず、本件人工呼吸器に内蔵されている警報装置は、警報音を自由に設定したり、切ったりするスイッチはなく、音量調節機能もない機種であったから、右警報装置が故障していた等の特別の事情がない限り気管チューブに閉塞があったとは考えられない。この点について、原告らは、原告康之は、シーパップ(人工呼吸器に接続されているが、患者は、自発呼吸のみで呼吸している状態)では、電源を切って人工呼吸器を使用するから、警報音はならないと主張するが、前記(1(四))認定のとおり、原告康之は、本件心停止当時、自発呼吸のみで呼吸している状態ではなかったから、右原告らの主張は根拠がない。また、原告らは、回復室の医師らが、本件呼吸器を使用する際、原告康之に対し、新生児や小児への適用である換気モードを使用したから、高圧警報装置が作動しなかった旨主張するが、本件心停止当時、そのような換気モードで本件人工呼吸器を使用していたと認めるに足りる証拠はない。

仮に気管チューブの閉塞により本件心停止に至ったのであるとすると、原告康之を看護していた東樹看護婦は、相当時間(甲六によると、気道の完全閉塞から心停止まで五分ないし一〇分を要するものとされている。)にわたり、本件ポリグラフの監視を怠っていたことになるが、収容患者を集中的、継続的に監視することが求められる本件病院のような回復室に勤務する看護婦がそれほどの長時間、監視を怠っていたとは通常では考え難く、そのような事態があってもやむを得なかったような特別の事情があったとも認めることができない。

以上の諸点に加えて、乙一一3によれば、心臓手術後には、手術侵襲、麻酔薬、内因性あるいは外因性のカテコラミン、気管の刺激、薬物、低酸素症、電解質や酸塩基平衡の異常、基礎にある心疾患などを理由にしばしば不整脈が見られ、患者が重症であればあるほど、多くの不整脈を発生することが一般に観察されているといわれていることが認められ、前記争いのない事実(4)のとおり、原告康之の本件心内修復術は、二時間四九分の間人工的に原告康之の心臓を停止させ、四時間五〇分の間体外循環時間を行っており、突然の不整脈により心停止が発生したとしても不合理ではない状態にあったことを合わせ考えると、気管チューブの閉塞が本件心停止の原因であったとは直ちには考え難く、本件心停止は、突然の不整脈の結果であると認定せざるを得ない。

二  右一のとおり、本件心停止の原因が突然の不整脈の結果であるとすると、争点2(一)(1)で原告が主張する回復室の医師及び看護婦らが原告康之の喀痰の吸引排除を怠ったとの主張も理由がないといわざるを得ない。

三  回復室の医師及び看護婦らに本件心停止の発見が遅れた過失があるか。

1  甲一ないし三、乙二八、三四、証人宮村医師、同渡辺医師、同金沢医師、同山崎看護婦及び同東樹看護婦の各証言並びに原告巖及び同淳子の各本人尋問の結果によれば、以下の事実を認めることができる。

(一) 原告康之は、本件病院に入院した時から、指床部等にチアノーゼが認められ、また、激しく動いた後には息がハアハアと荒くなり、口唇にチアノーゼが認められた。しかしながら、比較的元気がよく活発に動き回ることもできた。原告康之は、昭和六〇年一〇月九日、本件病院において心臓カテーテル検査をうけたところ、動脈血の酸素飽和度は七五パーセント、ヘモグロビン量は一デシリットル当たり18.8グラムであった。

(二) 原告康之の本件心内修復術前の赤血球数は六〇〇万台であったが、右手術後は、四〇〇万台、三〇〇万台に低下した。

(三) 大血管転位症は、大動脈と肺動脈が先天的に入れ違って逆の心室に連結している心奇形の症状であり、全身に酸素を十分に含んだ新鮮な血液を送ることができないため、動脈血中の赤血球が十分に酸素と結合していない低酸素血症を患者に生じさせる。

(四) 原告康之は、本件心停止のあった日の翌日である昭和六〇年一二月五日、本件病院脳外科の診断を受けたところ、井渕安雄医師は、広範な脳の障害による意識障害、不完全四肢麻痺があり、虚血性脳症である旨診断した。同日のCT検査結果上、原告康之の脳には異常所見は認められなかったが、同月二四日のCT検査結果で、脳室の拡大、脳溝の開大、脳皮質、脳皮質下の萎縮が認められるようになり、その後、徐々に原告康之の脳の状態は悪化した。

(五) ポリグラフとは、刻々変化する患者の血液循環の状態をリアルタイムにモニターする機械で、これに表示されるものは、血圧波形及び心電図波形の画面表示と脈拍数及び血圧の数値のデジタル表示である。本件ポリグラフは、日本光電工業株式会社製のポリグラフ・システムRM六〇〇〇であった。

本件ポリグラフがモニターする内容は、血圧(動脈圧)波形(画面表示は赤色の線)、心電図波形(画面表示は青色の線)、脈拍数、最高血圧、最低血圧及び平均血圧、静脈圧である。心電図は患者の体表面に貼り付けられた複数の電極のコードを本件ポリグラフに接続してモニターする。血圧は、動脈の中に挿入したカテーテルにチューブを接続し、そのチューブを圧の変化を感知するトランスジューサーに接続することにより、コードで本件ポリグラフと連結され、圧波形が画面表示される。本件ポリグラフの機能は、血行動態を画面及び数値で表示するとともに、同期音及び警報音によって聴覚的にもその状態が認識できるようにすることにある。同期音は、心電図波形に一致して出るように設定されており、音量調節が可能である。警報音は、予め設定した限度を超えたり、これに満たなかった脈拍数値がモニターされた場合、鳴るように設定されており、やはり音量調節が可能である。

本件ポリグラフを使用することによって、医師及び看護婦らは、見る、聞くといった視覚、聴覚の作用により迅速に患者の一般状態の変化を知ることができ、それに対応した治療措置をとることが可能になる。

2  そもそも、回復室で患者の治療看護に当たる医師及び看護婦らは、一般に、その担当する重症患者が突然の心停止といった死に直結する諸症状を高い確率で発生させることが多いという緊張感のもとで治療看護にあたっているものであり、限られた人員で投薬、検査等の多くの処置を行いながら、同時に患者を連続的に監視し予期せぬ急変を未然に防止することが求められているといえる。その中で、ポリグラフは、回復室で患者の治療看護に当たる医師及び看護婦の連続的監視を補助するものとして一般的に広く導入されているものであり、前記(1(五))認定のとおり、回復室においてポリグラフを使用することによって、回復室で患者の看護に当たる医師及び看護婦らは、見る、聞くといった視覚、聴覚の作用により迅速に患者の一般状態の変化を知ることができ、それに対応した治療措置をとることが可能となる。したがって、医師及び看護婦らは、ポリグラフに内蔵された警報装置を適正に設定し、また、同期音の音量を確認して、聴覚的にも患者の変化を知ることができるようにするとともに、常時、患者の状態、ポリグラフのモニター画面、ポリグラフが発する同期音、警報音に注意し、心停止等の非常事態が発生すれば、その発生と同時にこれを認知し、迅速にそれに対応した処置を講ずべき注意義務があるというべきである。

右に関し、被告は、回復室の看護婦は、一分間に一回はモニター画面を監視するように指導しており、これを遵守して患者を監視していれば、看護婦らに義務違反はないかのようにも主張するところであるが、右指導は、ポリグラフに内蔵された警報装置の警報音及び同期音に対する聴覚的な観察でも回復室における看護は完全とはいえず、これらの設定忘れや、あるいはポリグラフの故障といった異常事態が発生しても、常に患者の一般状態を監視し、患者の急変を迅速に把握するために行われているもので、警報装置による観察を補うものであって、右指導を遵守していれば義務違反は発生しないというわけではない。

3  しかしながら、本件ポリグラフには予め設定しておいた一定限度に満たない脈拍数値がモニターされた場合、警報音が鳴る警報装置が内蔵されていたこと、右警報装置は事前に限界となる脈拍数値を設定し、音量を調節しておかなければ警報音はならないこと、本件心停止当時、本件ポリグラフの警報音が鳴っていなかったことは、前記(一1(八)、三1(五))認定のとおりである。原告康之に本件心停止が発生したにもかかわらず、本件ポリグラフの警報音が鳴らなかったということは、本件心停止当時、本件ポリグラフの警報装置を適正に設定していなかったか、そもそも、警報装置が故障等の理由で作動しなかったというほかない。

4(一)  ところで、本件ポリグラフが右3のとおり何らかの事情により、作動する状態に置かれていなかったことをもって、回復室で勤務していた医師及び看護婦らの過失と認定するためには、そもそも回復室で勤務していた医師及び看護婦らが本件心停止の発生と同時にこれを認知し、速やかに本件心蘇生を開始していれば、原告康之に脳障害という結果が発生しなかったという結果回避可能性が立証されなければならないことはいうまでもない。

(二)  右の点について原告らは、一般的に心停止発生後三分三〇秒以内に心蘇生術が開始されていれば、脳障害は生じないといわれているから、結果回避可能性はあったと主張し、乙八2によれば、「心臓手術後管理マニュアル」と題する文献に、一般に心停止が発生すると脳循環が完全に停止し、三分以上右循環停止が続くと脳に障害が発生するとの記載があることを認めることができる。

しかしながら、右医学的知見は、必ずしも、三分以内に心蘇生を始めれば、脳に不可逆的な損傷を残すことはないということまで断言するものではなく、患者の状態等によっては、それよりはるかに短時間で障害が発生する可能性も十分にあることを否定するものではないと考えられる。

(三)  また、東樹看護婦の証言によれば、同看護婦は、渡辺医師が「心停止か。」と叫ぶ二〇ないし三〇秒前に本件ポリグラフのモニター画面を確認したところ、何ら異常はなかったことが認められる(右認定を覆すに足りる証拠はない。)から、本件心停止は、その後渡辺医師がモニター画面の血圧表示が零を表示しているのを発見した時までに発生したものと推認される。そして、渡辺医師らは、本件ポリグラフのモニター回路の点検をするなどした後、概ね速やかに本件心蘇生術を開始したことは、前記(一1(九))及び後記(四)認定のとおりであるが、そうすると、渡辺医師らは、結果的には本件心停止の発生と同時にはそれを認知しなかったものの、本件心停止の発生に極めて近接した時点でこれを発見し、概ね速やかに本件心蘇生術を開始したことになるが、にもかかわらず結果的には前記(1(四))のとおり、原告康之は脳に重篤な障害を負っている。

(四)  さらに、前記争いのない事実(2及び3)によれば、原告康之には、生来、心房中隔欠損、心室中隔小欠損を伴った大血管転位症兼肺動脈弁下狭窄症の症状があり、早期に本件心内修復術をしなければ一〇歳までの生存がほとんど望めない状態であったこと、前記(1(一)及び(二))認定の事実及び証人金沢の証言によれば、ヘモグロビン量は一デシリットル当たり18.8グラム、赤血球は六〇〇万台と健常人よりも高く、酸素飽和度の低さをヘモグロビン量、赤血球量の増加である程度代償していたと考えられるが、前記(1(三))認定のとおり、大血管転位症は、大動脈と肺動脈が入れ違って逆の心室に連結している心奇形をいい、全身に酸素を十分含んだ新鮮な血液を循環させることができない症状であること、本件心内修復術前から原告康之にはチアノーゼの症状があったこと、原告康之の動脈血の酸素飽和度は七五パーセントであったことなどの諸点に鑑みると、原告康之には本件心内修復術前から相当程度の低酸素血症の症状が認められ、脳を始めとする体内の組織、臓器の予備力が低下していたものと考えられる。

また、本件心停止は、原告康之が心停止時間二時間四九分、体外循環時間四時間五〇分という極めて長時間にわたる大手術を受け終わってから、約二六時間後であったということに鑑みると、本件心内修復術中及び術後に、原告康之の脳循環、動脈血中酸素濃度に異常があったことを示す証拠はない点を考慮しても、本件心内修復術によって、原告康之の組織、臓器の予備力はさらに一段と低下していたことは否定できないと考えられる。

(五)  これに対し、証人宮村医師、同渡辺医師、同金沢医師の各証言、原告淳子の本人尋問の結果によれば、本件病院で原告康之の主治医を担当した宮村医師、渡辺医師、金沢医師、丸山行夫医師らは、本件心蘇生直後、一様に、本件心蘇生が本件心停止の発生から一分程度で始められているから脳に障害は残らないであろうと考えていたことが認められるが、原告康之の主治医をしていた宮村医師らは、一般的な医学的知見に基づいた希望的観測をもっていたに過ぎないとも考えられる。

(六)  また、原告らは、原告康之の本件心内修復術前のヘモグロビン含量が一デシリットル当たり18.8グラム、酸素飽和度七五パーセント、酸素分圧が五〇ミリメートル水銀柱であったことから、動脈血酸素含量一デシリットル当たり19.044ミリリットルであり、これはほぼ正常値であるとも主張するが、動脈血正常値下限の19.134ミリリットルを下回ることは原告ら自身自認するところであり、前記(4(四))認定の事実に照らしても、原告康之が本件心内修復術前、相当程度の低酸素状態であったことを否定するものではないと考えられる。

(七)  以上検討した諸点に鑑みると、回復室で勤務していた医師及び看護婦らが本件心停止の発生と同時にこれを認知し、速やかに本件心蘇生を開始していれば、原告康之に脳障害という結果が発生しなかったという結果回避可能性について、これを認めるに足りる十分な証拠がないといわざるを得ない。

5  以上によれば、本件ポリグラフが右のとおり何らかの事情により、作動する状態に置かれていなかったことのみをもって、回復室で勤務していた医師及び看護婦らの過失と認定することはできないというべきである。

なお、原告らは、回復室で勤務していた医師及び看護婦らが本件ポリグラフの連続的監視義務を怠った点も問題としているが、前記(4)のとおり、回復室で勤務していた医師及び看護婦らが、本件心停止の発生と同時にこれを認知し、速やかに本件心蘇生を開始していれば、原告康之に脳障害という結果が発生しなかったという結果回避可能性が認められない以上、この点についても過失があったとはいえない。

四  回復室の医師及び看護婦らに本件心蘇生術開始の遅れがあったかについて

本件心停止発見から本件心蘇生術の開始までの時間について、東樹看護婦は、約三〇秒である旨証言しているが、その時間については測定していたわけではないし、同看護婦は、他方で、回路の接続を調べたり、脈拍を調べたりするのはすぐできた旨証言していること、渡辺医師は、右の点について、血圧の回路のチェックはごく短時間で済み、すぐに大腿動脈を触れて確認したので、せいぜい三〇秒であった旨証言していること、本件ポリグラフのモニター回路の点検や原告康之の脈拍の確認が不必要に手間取ったと認められるような特段の事情も窺われないことに鑑みると、本件心停止発見から本件心蘇生術の開始までの時間については未だ判然とせず、本件心蘇生術が速やかになされなかったとの証拠はないというべきである。

また、仮に、原告らの主張するように、回復室の医師及び看護婦らに本件心蘇生術開始の遅れがあったとしても、そもそも、前記(三4)のとおり、渡辺医師らが、本件心停止の発生と同時にこれを認知し、速やかに本件心蘇生を開始していれば、原告康之に脳障害という結果が発生しなかったという結果回避可能性が認められない以上、この点に関しても過失があったと認定することはできないというべきである。

第四  結論

以上の次第で、原告らの請求は理由がないからいずれもこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条及び九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 太田幸夫 裁判官 戸田彰子 裁判官 永谷典雄)

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